昭和46年07月28日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよい ようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にし て、神を恨むようなものがある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受 けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが 第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
昨日、ある方のお取次をさせて頂いた。丁度、三十四節に教えておられる様な意味のことだったと思うのです。例えば、ここで、お金に不自由をしておる人、人間関係で悩んでおる人、病気で悩み苦しんでおる人、様々な人間の難儀。そういう難儀の様相と云うものを見せて頂いて、そこから信心に依って助かられたならよかろうと思う。それは、私自身がおかげを受けておるから、私の言う通りにすればおかげが頂けれると思うのだけれども、私の言う通りにしないからおかげにならんのだ。
この頃から、青年会の方達が、今申しました様なことを印刷したものを、パンフレットの中に挟んで配りましたですね。それは皆が願っておる事、皆がそれこそ、喉から手が出る程に欲しいものばっかり。不健康な人は健康になりたい、お金に不自由をしている人はほんなこて合楽に参ったなら、お金に不自由せんごとなるじゃろうかと、疑いたくなるくらいに、そのものズバリに、金に不自由しておる人は来れ。
人間関係に悩んでおる人は合楽にお出と云う様にです、はっきりしたことを言うて、人に配られると云う事は有難いなぁ、これは私にして云える事だなという様な事を感じたんです。何故って、そうでしょう。お取次をする者自身がお金に困っておったり、人間関係で悩んでおったりしたのでは、お取次の仕様がなかじゃろうと思いますよね。なら私自身は、それはあります。金がふんだんに有るという訳でもなからなければ、人間関係が全てがスムースにいっている事はないけれども。
一つ一つ確かに間違いなく、おかげにして行っておるという事実はある。だから、それが、私が、そういう意味での体験者ですから、私が言う通りにしておればおかげが頂かれる筈なのに、おかげが受けられんのは、家に帰ったら、自分で自分のよい様にするからだと云う事になるのです。そうですね。お広前にお引き寄せを頂いて御祈念をさせて貰う。御理解を頂く。
ですから、お広前では、確かにこの調子ならおかげ頂くぞと思う。ところがその有り難いのは途中で落としてしまうて、家に帰った時にはもう忘れて仕舞っておると云う事になる。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして神を恨む様なもの。神をうらむ様なことは無いにしても、そげん先生の言わっしゃる通りにはおかげは頂けんくらいのことは思うだろう。
そして、おかげちゃそげん頂かれるもんじゃないと云う様な、思い込みすら出来て仕舞う。それでいて、やっぱ、金光様の御信心を頂いておる者が沢山だ、いや殆どだと云うて良い。そげん神様の云いなさる通り、おかげ頂けるものじゃない。まるきり神様は如何にも、オーバーに言うてござるごとある。場合には嘘を言うてござるごとある。そんな事は決してない。そこで、おかげを受けられんのは、自分の方には、一番最後のところに、心の内を改めることが第一なりと。
心の内を改めて、そして教えに本気で取り組ませて頂くと言うのである。私はそういう意味の事を、昨日、ある方にお話せねばならない様なお届の内容であった。神様にその事をお取次させて頂きましたら。今は、建築致しまして、あんな竹壁をしてね、縄でこうやって竹壁をしてあるですね。その上に泥をこう塗って行くのですね。今は新建材で、あんな事は致しません様ですね。そういう竹壁がしてあるところを頂いた。ははぁ、ここで頂くのは、竹壁の様なもんだ。
家に帰って、これに泥をつけるだけの信心が出来にゃいけんちいう事だと思うた。だから、壁はうっぽんぽんじゃ。おかげはそこから漏っていきよる。おかげが漏るだけならよか、そこから間風が入って来るごたる結果にさえなる。話を聞くと、この位の事は自分でもよう分かっておる。けれども、その場では分かっていない。後になって気が付いておる。家内に文句を言うた。そしたら、先生、家内がまた文句を言いますと言う。親父が文句を言うけん、家内がまた文句を言うた訳です。
どういうことに文句を言うたかと云うとです、どっちがどうとも云われんのだけれども、やはり、主人のわがままである。それで夫婦の間に険悪な雰囲気が流れて、とうとう今日で二日も、もの言わんち言うごたるふうな状態になっておる。向こうが言わんなら誰が言うかと云うごたる風で、やっぱ、両方ながら、辛抱し合うておる風です。昨日の御理解を頂いて、これはいっちょ私の方から断わりを云わにゃいかんですのと云うてから、帰っられたそうですよ。
男じゃけん、自分が目上じゃから、断わりを言うちゃならんち言うことはない。悪いと気が付いた者が、断わり言うとがほんなこつ。自分が分からんことを先に言うから、家内が分からんこつを言う。家内も分からん筈はないのに、日頃の教えはどこへか行って仕舞っておる。いわゆる、荒壁がしてあるだけ。荒壁と言うのは、いわゆる、竹壁がしてあるだけ、壁はうっぽんぽん。風が洩るだけならよかばってん、そこから間風が入って来よる。そして夫婦争わなければならない。
もう二日も夫婦でおって、同じ屋根の下におって、ものも言わんと云う様なことになっておる。考えて見ると、もう気易いこと。自分の我が侭を棚に上げて家内を責めておる。そこで気が付かせて頂いたら、家内にでも、ほんならば断わりを言おうかと云う心が起きて来る。お互いここにお参りをさせて頂いて、いわゆる竹壁をした様なもの。帰ってから泥を塗らにゃいかん。そして本当の壁が出来る。ですから、ここでおかげを頂いて有難いと思わせて頂いた事をです。
また帰りがけに、この有難いものを、どうぞより以上にこれをもっと練らせて貰い、もっと本当のものにして、家に帰ってこの事を実行させて頂きたい。実行させて下さいと云うお願いをして帰らなければいけんと言う事になる。此処ではどんなに有難く頂いておっても、途中で落として行って仕舞うたら、もう家に帰る時には何にもない。そしておかげは受けられん。
我侭を言うておる、理不尽を言うておる。分かっておりながら自分のことを棚に上げて、家内だけを責めておる。家に帰って、それこそ、土の様な信心、黙って受けさせて頂く様な信心。泥を水でこねる。練って練って練り上げて、それを教会で頂いて来た壁に塗り付けて行く様な生き方をさせて頂かなければ、私が言うおかげにゃ、いや教祖様が仰る様なおかげ、これは私が言うということでもよい。
お金に不自由する者、人間関係で悩んでおる者、みんな集まって来い。それを私自身がおかげ頂いておるから、私の体験を話させて貰うなら助かると、私は信じておる。ところが助からんならば、私が言う通りをしておらんと云うことになるのだ。此処では、なるほど先生、あなたの言わっしゃる通りですなぁと分かっても、それを持って帰って、大事にすると云うよりも、それを、ここでよりも、より、もっともっと大事にしなければいけん、おかげを受ける為には。
此処で話を聞いて帰れば、家でおかげが待ってるち言うことじゃない。そういう願いが成就することの為に、ここで頂いたものを家に帰って、それを練り上げて、いわゆる竹壁に泥を塗る様にして行くなら、もうそこからおかげの洩る事もなからなければ、又、風が洩ったり、またはそこから間風が入るといった様なことは絶対に無いおかげが受けられるのが、私は金光大神の道だと思う。
だからお参りをすること、お話を聞くことに一生懸命なら、それを頂いて帰って、家で行ずることは、それよりもっともっと大事にしなければならないと言うこと。さぁおかげが頂きたいなら。ですからここで有難いと思うた事をです、それはほんの少しであっても、分かったところが分からせて貰うたならです。その事を本気で帰らせて頂く道で落とす様な事はない。家に持って帰ってこれをまた練らせて貰い、それをまた行じさせて貰うことを願うて行かなきゃならんそれが願いとならなきゃいけん訳です。
ところが、ここではよかった、有難かったち。ここで言うただけで、もうおかげ頂いたごと思うとる。それは丁度、荒壁をした様なもんじゃ。これで本当に、泥を水でこねて、水の様な信心、土の様な信心をです、本気で家に帰ってしなければいけんのです、信心ちゃ。そういう事をです、私は改まって行かなきゃいけんと思う。そういう事になる様に改まらにゃいけん。信心は、心の内を改めることが第一なり。そこんところを改めない。これが自分が悪いとこということが分かっとる。
分かっとるのじゃけん、改めたら良いじゃないか。それこそ水の様な信心、土の様な信心じゃったら、気易う出来ること。見易う出来る事、それを自分の欠点と分かりながら、それを改めようとしないからおかげにならんのじゃ、そうでしょうが。心の内を改めることが第一なり。心の内を改めたら、形の上にも、それが表れて出て来なければいけん。はぁ自分の我侭だと。例えば自分の、我侭を欠点と思うておるならです、その我侭を改めたらよい。分かっただけでは、竹壁をしただけなんだ。
おかげを頂きたいならです、水も漏らさない様な、おかげを頂たいならです、そこを私は本気で取り組ませて貰う。しかしもう取り組む事がね、もう楽しうならにゃ。毎日参って来て分かった。それを持って帰る。持って帰ってそれを練り上げて行く。そしておかげを下さい、おかげを下さいだけは願うておる。おかげを下さりよる、神様が。けれども荒壁じゃけん、そこから抜けて仕舞よる、神の一言は千両の金にも代えられぬ。有難く受けて帰れば土産は舟にも車にも積めぬ程の神徳がある。
そこにはもう神徳の世界にまで触れておられます。それが頂き抜かれる、神の言うこと、神様の一言を千両の金にも代え難いものとして尊ばせて頂くなら、車にも舟にも積めぬ程の神徳が受けられて来るのである。今日は皆さんもおかげを受けたいとこう云う。これは私が確信をもって、まあ云うなら、自分が頂いておるのだから、自信を持ってと言うても良いですよね。お金に不自由をしている人は合楽に来なさい。病気で悩んでおる人は合楽に来なさい。人間関係で苦しんでおる人は来なさい。
とにかく、この世の中で、一番不幸な者は、自分一人の様に思うておる人は、一遍合楽にやって来なさい。必ず助かる。と、これは私は自信を持って言えれる。それは私の言うことを聞いて貰わねばならない、その代わり。私が頂きもせんどいて言いよるとじゃない。私自身が頂いておるから、皆さんに自信を持ってお伝え出来るのである。それを、なるほど先生そうですなぁと頂いとっただけじゃ、どうですか。帰ってわがよかごとするなら、おかげの頂ける筈はないでしょう。
成程、先生が言わっしゃる通りすりゃ、お金に不自由することはないなぁ、人間関係が難しい悩みであると思うておったけれども、それとても教えを守って行くなら、これは楽なものであると云うおかげがそこに受けられる。そのおかげがです、そういうおかげを頂いて、そういう体験を積んで積んで積み上げて行くところにお徳の世界がある。神の一言は千両の金にも代え難いものである。
おかげの世界から徳の世界。限りないおかげの頂けれるところまで、私共の信心が進んで行くと云うか、展開して行かなければならんのに、おかげを受けると云うところまでも、よう頂いとらん。そうでしょう。子供がついちゃ来ん。家内がついちゃ来ん。お父さんがついちゃ来ん。本当に教祖様の教えて下さる御教えを行じたらね、周囲の者がついて来にゃおられん。
それが金光様の御信心なんだ。家の親父があんなことを云うけれども、神様に、参りゃおるけれどもと云う様なことがあるからついて来ん。成程家のお父さんが云いなさる通り、家のお母さんが云いなさる通すりゃおかげが受けられる。そのおかげを見せて行くからついて来にゃおられん。馬鹿らしゅうなって来る、ついて行かにゃ。それには一つ、本気で徹底してです、ここで頂いた御教えをです、帰りがけにもう一遍お願いをして帰る。まぁいちいち、ここに出て来ることはいらんですよ。
けれども、今日神様頂きました。ここんところは、本当におかげ頂かんならんところと思いますと。どうぞこれを只今から持って帰って、よく練らせて頂き、水の心、土の心の様な心を持って、これを塗り上げて行く、仕上げて行くおかげを頂かせて下さいと。間違うことのなく、誤つことなく、ここんところを行じ抜かせて下さいという願いを立てる。信心は自分の心を改めることが大事と仰る。
そこんところをその様に改めて行くのだ。ここを改めにゃん事が分かっとっても、それが見易う出来ることでも、本気で土の心になりゃ、水の心になりゃ、それこそ有難う、楽しう改められることを改めんで、私はここが欠点ち自分で云うとるだけ。それじゃいつまでたったっちゃしようが無い。それは分からんのと同じ事、いわゆる論語読みの論語知らずと云うことになる。それじゃ何の役にも立たんです、信心は。
昨日、上野先生がここに出てきてから、その前の晩に、その前の前の晩じゃったでしょうか。私は必ず、十二時ちょっと前に、ここに出てきてから、神様に一番最後の御挨拶をする。出て来たところが、そこに大きな電気がついとる。同時に、ここはみんな開けっ放しである。誰か起きとるかと思うたら、誰も寝てしもうてる。上野先生が一人、勝手の方で何かごとごと御用しよる。これは上野先生、どうしたことの、表は大きな電気がついたまま、あちらの戸締りは全然出来とらんが、と云うて申しました。
はぁそげな事ですか。今日は誰々さんが当番じゃったから、私は知らじゃったといった様な意味のことを云いながら、全部戸締りをしてから電気を消して休んだ。さぁところが、その私の責任じゃ無いといったような事を、親先生に、そん時に言うたことが、とにかく気にかかって気にかかって仕様がない。それから二日間、自分の心に、その事を練らせて貰った。本当に自分には、こういう欠点があると。これを如何にも自分のせいじゃない、人のせいですよという様なところがあると。
本当にこれがもし、椛目の池尻さんなら、あぁ済みませんと、ただ言うてから、すぐ電気も消しなさったじゃろう、戸も締めなさったじゃろうとこう思ったとこう言う。本当に私はここを改めなければおかげは受けられん。と、二日間練って練って練った上に、昨日、その事を、これからはおかげを頂きますと言うお届があった。私も別に気にかかってなかった、その事を。けども、上野先生自身はです、そういう事がです、どうもすみませんを言う前に、今日は私の当番じゃなかったという様な意味。
今日は誰々さんじゃった。もう寝てしもうてから、だから、寝とるとば起そうかとまで思うたぐらいじゃった。あんたどん、どういうこつの、電気はついとるばい、ここは開けっぱなしばいと、まぁ言おうかと思ったぐらい。まぁこう言う人を責めたり、それを人のせいにしたりして、只親先生が、そう言いよりなさるから、はぁどうもすみませんと言うて、ただ、閉めれば、それは何もないのに、まぁ言い訳の様な事を言う。ここに自分の、何時もの欠点があることを、二日間考えた。
いわゆる土の心、水の心で練っていた訳なんです。そしてこれからは、こげなことは繰り返すまいと、心に誓うたとこう言うておる。まぁ誓うたけれども、これが、性の中に、性分の中にある者ですからね、お互いが。一遍二遍で、改めることは出来んかもしれんけれども、私は、そのくらいなものが必要だと思うですよ。信心とは、そういう様な心にね、自分の心に、はぁこれが自分の欠点と気が付いたらです。それを、練って練って、練って見ることなんです。そして、すっきりとした答えが出て来た。
これは私の改まらなければならない所、これは私の癌だ。こう言うことが、一事が万事に、ひとにコリを積ませるような事にもなよろう。しかも、親先生に、言い訳の様な事を言うた事が、心に引っ掛かってしようがない。二日間練った。そして、昨日の、そのお届けになった訳である。私は、良い事が改められて、自分のものになって行くということは、そういう様な事だと思う。
自分の、これは私が欠点じゃけんち言うちから、練ろうともしない。そういう生き方がです、いわば、竹壁に泥を塗る様なものである。そこに、おかげを受けとめられるおかげが受けられるのである。金が足らんなら、金のお繰り合わせ。人間関係がスムーズにいかんなら、人間関係の上にも、円満なおかげが受けられる。全ての難儀の上に、そういうおかげが受けられる。そういうおかげが受けられる事が分かる。
それを、体験と言う。ですから、もう次に改まって行くことが、次に教えを頂いて、それを本気で 練らせて頂こうと言うことが有難い、いわば、こよない楽しい物にまでなってくる。ただ、お参りをしてから、ご理解を頂くとだけが楽しみと言うのが、合楽では、多いのじゃないでしょうか。それを、持って帰って、水の心で、土の心で練って行こうと言うところの精進をする人が少ないように思う。
○○さんじゃないけれども、ここでは、とっても素晴らしいと思う、私は、そこの御主人は。ところが、奥さんが来てから言うと、家の主人は、帰ってから、こうです、ああですと、そらほんなごつのち言うごとある。なるほど、それじゃおかげは受けられんと思うね。裏と表のある心だもん。それでは、竹壁しただけじゃから、風はぽんぽん、そこから抜け出ておる。風が通るだけならよかばってん、間風が入ってくる。
途中で落としてしまうことなく、それをどうぞ、持って帰らせて下さいと願って行かなきゃいけん。それを祈って行かなきゃいけん。そしてそれを、お広前でよりも、もっともっと、素晴らしい物にせにゃいかん。私は、今の上野先生の、昨日のお届けをです、そういう意味で、素晴らしいと思う。二日間も練った、その事を。そして、これからは、こんな失敗はするまいと、お届けをしてお願をした。
よしまたこれは失敗をするかも、それは分からん。人間だものけれどもそれをまた、お取次を頂いて、お願をして行くうちにです、いつの間にか自分の性の中に合った様なものまで、それが、抜けて行くようなおかげになて行く。おかげなんです。そういう繰り返しをさせて頂くところにです。そのおかげの世界から、徳の世界。なるほど神様の一言は、千両の金にも代え難い、有難く受けて帰ればとこう仰る。それを有難く受けて練って行けばです。土産は、舟にも車にも積めぬほどの神徳になる。
心の内を改める事が大事なり。今日私は心の内を改めると言う事はです、今まで自分が、これが欠点だと思うておる様な事をです。教えに取り組めば、簡単に出来ることをです。それは中々ねもうこりゃ、一生かかったっちゃ出来まいと言う様な事もありますよ、自分の心の中に改めようと思っても。そげん難しいこっじゃなかっじゃん。昨日善導寺の原さんが、晩の御祈念に参って来てお届けをしておられた。
今度久富さんところかね、繁雄さんところの共励会だっただろうか。で、若先生がお互いの欠点を一つ、話して下さいち言う事じゃった。そしたら先生家の昌一郎が話します事。息子さんですね。私はもう親にえらいその、粗末な言葉を使う。もうそれこそつっけんどんである。本当にそれが欠点だと。それは原さんが言う。もうそれこそ嫁後さんには、むごう言うばってん親にゃてんでもう、プンプン言うちから言う。
喧嘩腰で言う。他所に行ったら、大人しゅうしてるけれども、家じゃもうとにかくお父さんでん、お母さんでん、それこそ、目下の者のごたるものの言い方をする。こげなこっじゃいくまい、こげなこっじゃいくまいと、親も思いよるところへです。昌一郎が、そういうことを申します。自分の欠点を知っておると言うことだけでも、それを聞かせて頂きながら、有難いと思いましたち言うて、昨日は、お母さんがお届けしておる。それが、今度は、本気で、改められたら、どういう有難いことになるだろうか。
もうおかげじゃない、徳の世界。別にさぁ取って付けたごたる、またこんなことは言うことは要らんけれども、そのつっけんどんに言うその事を、例えば、家内に言いよる様に、または自分の周囲の人により接しよる様に、親にも接する事は出来ん筈はない。見易い事。ただ自分の欠点を知っとると言うだけじゃつまらん。それをお願をして、お取次を頂いて、本当に、親子の中の話し合いといった様なものがです。
何か、スムーズに行くことの為にもね、子供は子供として、親に対する言葉遣いといった様なものを、改めるといったような事は、もう誰でも出来る事、しようと思えば。それを、欠点と分かっておることは分っとるけれども、改めようとしない。これではね、おかげを下さいと言うたっちゃおかげにならん筈です。それを徳の世界にまで持ち込んで行く。それを次々と積み重ねて行く。
そういう改まらねばならんことがです、次々と本当のものになって行く。そういう事にです、心をいっちょ、改めなければいけないと言うのである。神に一心とは迷いの無いことぞ。いよいよ本当に、神に一心とは迷いの無いことだなぁ。この例えば、今朝頂いた御理解を、本気で行ずる事以外ににないなと思わせて頂くことは、もう一心と定まったことである。人間関係で、例えば都合が悪い。
お金に不自由をする。と言うのは、あぁ言う理由とか、こう言う訳じゃない。自分が改まりさえすればおかげが頂けれると、一心と定めるのである。それを例えば難儀をしたり、困ったことをです、皆それを人のせいにしたり、他の衆のせいにするという事では、神に一心と云うことにはならん。自分が改まる事以外にはないと、一心と定める事がです、私は迷いの無いことぞと仰るのは、そういう意味だと思う。今日はそういう意味で聞いて頂きました。
どうぞ。